「もう遊ばない」
と、パパに言われた4歳の息子。
時計を見ると19時を過ぎていた。寝る時間が近づいている。
部屋の空気は、さっきまでの笑い声の余韻をまだ少しだけ残していた。
息子は、まだパパと遊びたそうにしていた。
レゴを片付ける手が止まっては、何度もパパの方を見ている。
きっと彼は、笑いあって、ふざけて、
もう少しだけこの時間を続けたかったんだと思う。
でもパパは、
「もう寝る時間だから、遊ぶのは終わり。」
と区切った。
それは、親としてはごく普通の判断だった。
ここからまた遊び始めたらテンションが上がり、寝つくのも遅くなる。
だから今日はここまで。
ただ、4歳の息子にとっては、
「寝る時間だから仕方ない」
では終われなかったらしい。
まだ遊びたかった。
もっとパパと一緒にいたかった。
その気持ちの置き場が分からなかった息子は、パパの眼鏡を隠した。
もちろん、やっていいことではない。
人の大切なものを勝手に隠してはいけない。
それは大人の世界のルールとして、はっきりしている。
パパも強く叱った。
「そんなことをするなら、もう君とは遊ばない。」
その瞬間、空気が変わった。
息子の顔が、ふっと固まる。
怒っているようにも見えたし、悔しそうにも見えた。
でも一番近いのは、たぶん悲しさだったと思う。
しばらくして息子は、隠していた眼鏡を持ってきた。
そして未完了の感情のまま、強くパパに返した。
そう、返した。
でも、その「返した」はパパには拾われなかった。
「そんな返し方するなら、もういいよ。」
またパパに言われた。
その一言で、息子の中の何かが跳ねたように感じた。
それは、怒りと悲しさが混ざって、うまく出口を見つけられないままだったと思う。
リビングの空気だけがどんどん固くなっていく。
私はそのやり取りを横で見ながら、ふと、思った。
この子は何をしたかったんだろう。
眼鏡を隠したかったのかな。
パパを困らせたかったのかな。
遊んでくれないから悔しくて怒らせたかったのかな。
どれも「行動」として見れば、そう解釈できる。
でも、その少し前まで時間を戻してみると、
そこには、パパと楽しそうに遊んでいた息子がいた。
レゴで作ったロボットを使って戦いごっこ。
笑いながら追いかけて、わざと転んで、もう一回やって、と目で訴えていた。
もっと遊びたかった。
終わってほしくなかった。
でも終わってしまった。
4歳の息子には、その寂しさや悔しさを、きれいな言葉にする力はまだない。
「僕はまだパパと一緒に遊びたかったから、急に終わりと言われて寂しかった。」
そんなふうには言えない。
だから、眼鏡を隠した。
そう考えたとき、目の前の出来事が少しだけ違って見えた。
私は息子に言った。
「本当は、もっとパパと遊びたかったんだよね。」
息子を見る。
すぐには返事はない。
でも、少しだけ表情が揺れる。
「終わりって言われて、悔しかった?」
「悲しかった?」
「寂しかった?」
言葉にならないものに、そっと名前を置いていく。
それでも私は、眼鏡を隠したことまで「仕方なかったね」で終わらせたくはなかった。
「でもね、パパの大切なものを隠したことは違うと思う。」
そこは分ける。
もっと遊びたかった気持ちは、悪くない。
でも、
人のものを隠すことは、してはいけない。
私は以前、子どもの気持ちに寄り添うことと、きちんと叱ることは、どこか反対側にあるものだと思っていた。
寄り添えば甘やかしになる気がして、叱れば心を閉じさせる気がして。
どちらかを選ばなければいけないような気がしていた。
でも今は、少し違うと思っている。
感情には、YESと言っていい。
行動には、NOと言っていい。
「もっと遊びたかったんだね。」と受け止めながら、
「でも、眼鏡を隠すのはダメ。」と言っていい。
子どもの心を理解することは、子どもの行動をすべて許すことではない。
むしろ、気持ちと行動を分けて見られるようになることで、
子どもは少しずつ、
「この気持ちのとき、どうすればよかったんだろう」
を学んでいくのかもしれない。
そして、この夜。
もう一つだけ、胸に引っかかった言葉があった。
「そんなことするなら、もう君とは遊ばない。」
パパも本気で怒っていた。
大切なものを隠されたのだから、当然だと思う。
仕事の疲れもあったと思う。
私だって、同じ立場なら余裕を失うかもしれない。
でも、あとから振り返ると、少しだけ違う言い方もあったのかもしれない。
「眼鏡を隠すのはダメ。」
それはそのまま伝える。
でもそのあとに、
「まだ遊びたかったんだね。でも今日は終わり。また明日遊ぼう。」
そう続けることもできた。
つまり、行動にはNOを出しても、関係までNOにしなくていい。
それは子どもに対してだけじゃなく、
大人同士の関係にも通じることのように思えた。
そして私はもう一つ、見落としかけていたことに気づく。
息子は最後に、眼鏡を返していた。
怒っていた。
返し方も乱暴だった。
でも、返した。
そこには、小さな「戻ろうとした動き」があった。
「怒ってたけど、返してくれたね。ありがとう。」
そのあとで、「今度は強く返さず、手で渡そう。」
それでもよかった。
できなかったところだけを見れば、
「隠した」
「怒った」
「乱暴に返した」
になる。
でも少しだけ視点をずらすと、その途中には、ちゃんと「返した」がある。
子どもの一日は、できたかできなかったかの二択では測れない。
その間にある揺れの中でできている。
息子の気持ちを代わりに説明した。
4歳の今は、それでも必要だと思う。
まだ言葉にならない気持ちを、大人が一度すくい上げること。
でも同時に、ずっと私が通訳でいる必要はない。
いつかは、「パパに何て言いたかった?」と本人に返したい。
言えなければ、「『もっと遊びたかった』って、一緒に言ってみる?」
それでもいい。
私が間に立ち続けるのではなく、いつか自分で関係を修復できるように。
そこまでが、親としての役割なのかもしれない。
この夜の出来事を、
「息子がパパの眼鏡を隠して怒られた」
だけで終わらせれば、ただの小さな家庭の衝突で終わる。
でも、その行動の少し奥を見てみると、そこにいたのは、
遊びが終わる寂しさを、まだうまく言葉にできなかった4歳の子どもだった。
だからといって、隠していいわけじゃない。
「もっと遊びたかった」は受け取る。
「眼鏡を隠す」は止める。
「返した」は認める。
「乱暴に返した」は次を教える。
そして、
「もう遊ばない」ではなく、
「今日は終わり。また明日。」
そうやって一つずつ分けていけばいい。
親になると、子どもが何かをした瞬間に、
「正しいか」「間違っているか」で判断したくなる。
私もそうだ。
でも最近は、その前に一度だけ立ち止まりたいと思う。
この子は今、何を伝えようとしているんだろう。
叱ることも必要だし、教えることも必要だ。
でもその前に、まだ言葉になっていない気持ちがあるかもしれない。
それを一度でも見つけてもらえた子どもは少しずつ、
隠す代わりに言葉を選べるようになるのかもしれない。
怒る代わりに、
「もっと遊びたかった」
「寂しかった」
「悲しかった」
と言えるようになるのかもしれない。
そして私は、そんな言葉を言える子にしたいというより、
そんな言葉を安心して出せる関係でいたい。
あの夜、
メガネを隠したことは、確かにいけなかった。
でも、息子の心まで「いけない」にしなくてよかった。
悪い行動を止めることと、その子の心を拒絶しないこと。
その二つは、同時にできる。
子育てはきっと、その間を行ったり来たりしながら、
親も一緒に少しずつ覚えていくものなのだと思う。



起きたことからサッと次の行動、言動が出るから、そのときの気持ちや思いって当人だって気づけてなかったりする。だけど、しょうこさんは細やかに表情や態度、声色、いろんなものをキャッチしながら、思いやほんとの願いをすくいあげている。すごいなぁと思いました☺️感情の波にのまれないことも、キャッチ力も解像度も高いことも✨
それはしょうこさんの中にも、ある願いがあるからなんだろうなとも思いました😌素敵なお話でした🤍
子どもの言葉や行動の中にある「本当の気持ち」を見て言葉でくみ取ってあげられる。息子くんにとって、救われた気持ちになっただろうなぁと思いました👏✨
息子くんとパパさんは仲直りできたかな…☺️